深田 上 免田 岡原 須恵

幻の邪馬台国・熊襲国 (第1話)

1. 魏志倭人伝 邪馬台国女王之所都

 今から約2000年もの昔、弥生時代の九州には幾つもの王国があり、その王国の中には邪馬台国(やまたいこく)という女王国があった。また、この邪馬台国と長い間、仲が悪く、敵対関係にあった狗奴国(くなこく)もあった。この狗奴国は熊襲国(くまそこく)のことではないかとされている国である。2000年も前のことなのに、どうしてそんなことが分かるのかというと、3世紀末(280-297年)、中国の陳寿(ちんじゅ)という人によって書かれた歴史書があるからである。その書名は「三国志 魏書第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条」というもので、略して、「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」と呼ばれている。

 「三国志」の三国とは、中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)
していた時代(180年頃から280年頃まで)の魏(、240―249年)、蜀(しょく、238-257年)、呉(、238-251年)という三つの国のことである。その国
の一つ、魏(ぎ)の国の歴史書が魏史であり、その中の倭(日本)について書かれている条項が魏志倭人伝である。
時代は三世紀、それら三つの国が、中国のどの辺りであったかを図1に示した。

3世紀地図
図1. 三世紀の東アジアにおける中国三国時代と倭国の位置関係

遠く離れた外国なのに、どうして倭国(わこく:日本)や倭人(日本人)に対する記述条項があるのかというと、その頃の倭(日本)は中国の冊封(さくほう、さっぽう)体制下にあり、交流があったからである。「冊封」というのは、当時の中国王朝がとった外交政策であり、近隣国との名目的な君臣(くんしん)関係を結んでいたことである。君臣関係といっても、臣下の領土が侵されたり、軍事的協力が強制されることはなく、親書や形式的認証、国王の慶祝、特産品の献上やその見返りを頂くといった程度の関りである。国王が即位した場合などは、貢物(みつぎもの)をしたり、親書や名目的任命書を付与するための朝貢使(ちょうこうし)や冊封使(さくほうし)が双方向往来するなどして交流した。後述のように、沖縄では今も「冊封使行列・冊封儀式」が再現されている。

 さて、「魏志倭人伝」にはいつ頃のことが書かれているのだろうか。この歴史書には、今から約2000年前、弥生時代の倭国や倭人の習俗のことが相当詳しく書いてある。日本の古いことが書いてある歴史書といえば、奈良時代の始め、712年に編纂された古事記や720年の日本書紀がある。しかし、これよりも約430年も前の日本(倭)のことが書いてあるのだから貴重な資料である。貴重な歴史書であるが、この「魏志倭人伝」のことや、後述する倭王国のことは古事記や日本書紀(記紀)には書かれていない。やはり、記紀も勝者側からの都合のいい部分だけをとって編纂された歴史書であり、その頃もまた、権力こそが真実だったからである。

 魏志倭人伝には、どんなことが書いてあるのか。1982の文字が書いてあるが、その冒頭部分には、わが国の歴史学や考古学者の頭を悩まし、江戸時代より決着していないことが書かれている。図2に、その部分を示した。

倭人傳
図2. 魏志倭人伝に邪馬台国や狗奴国に至る里程と方位が書かれている部分

 図1の地名の位置関係を念頭に描きながら、魏志倭人伝の問題箇所を読解してみよう。まず、図2の右端から、
倭人在帶方東南大海之中依山㠀為國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國從郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里・・・
と漢字ばかり並んでいる。

 この部分の意味は、「倭人(日本人)は帯方郡(たいほうぐん)の東南にあたる大海の中にあり、山々を境とし、島を単位として国を形成している。昔は百余国あって、漢の時代(後漢の頃:25年―220年)には朝見(ちょうけん)する者がいた。いま、魏と交流可能な国は30国である。
帯方郡から倭(日本)に至るには、海岸に沿って航行し、馬韓を通り過ぎ、南に行き、また東方向に向かうと倭國(日本)の北岸である狗邪韓国(くやかんこく)に到着する。その間の距離は7000余里である」、である。

 どうやら朝鮮半島南東部までの行程が書いてあるようであるが、今は存在しない地名が含まれているので、より正確を期すには文言と内容を検証しなくてはならない。まず、「帯方郡」である。帯方郡は、中国後漢末期の群雄であった公孫氏(こうそんし)が支配した古代中国・魏の直轄地であり、204年から313年の109年間つづいた。この域は、中国とって朝鮮半島中西部の軍事的、政治的、経済的な地方拠点であった。帯方郡は、現在でいうと、韓国のソウル特別市を中心とした地域であるが、昔は、魏の国の一部であり、当時の倭国にとっては最も近い中国の窓口であった。

 「朝見」とは、国王に拝謁(はいえつ)することである。今から1900年も前には、君臣関係にあった倭国の使者が貢物などをもって中国皇帝に謁見していたことがわかる。このような冊封制度による交流は、沖縄では1400年頃から500年も続いた。前述のように、この時代の柵封儀式の模様が、現在でも那覇の首里城内で再現され、多くの観光客の前で披露されている。その様子を図3左に示した。

 この儀式では、皇帝の使い、正使が任命文書の「詔書 (しょうしょ)」や「勅書(ちょくしょ)
を中国語で読み上げ、王子の世子(せいし)が正式に国王として即位する様子、それに琉球と中国の伝統音楽が奏でられるなか、中国皇帝からの贈り物を国王が受け取る様子などが再現されている。今も沖縄で再現されているような中国との君臣関係が、今から約1800年前の邪馬台国でも行われていたのである。なお、「詔書」や「勅書」の「詔」や「勅」は、いずれも天皇や皇帝の勅命(命令)のことである。

冊封儀式
図3. 沖縄の冊封儀式(左)と 狩野安信の朝鮮通信使(出典:ウイキペディア)

 時代は後になるが、室町時代の1429年から1443年頃まで、朝鮮の李王朝との交流があり、最初の朝鮮通信使が派遣されてきた。図3の右は、狩野安信の朝鮮通信使来訪の様子である。秀吉の時代には2回、 家康の江戸時代には 12回も来ている。目的は、将軍家に対する祝賀であったが、幕府にとっては、君臣関係で 言えば、将軍家が「君」で朝鮮王朝は、貢物を献上してくれる「臣」の気分であった。しかし、朝鮮王朝にしてみれば、「触らぬ神に祟りなし・寝た子を起こすな・君子危うきに近寄らず」だったと考えられる。

 「狗邪韓国」は、図1にも示したが、3世紀頃、朝鮮半島の南東部地域にあった国で、九州に最も近い国、現在の釜山(ぷさん)や金海(きめ)あたりが中心だったとされている。
帯方郡の港を出て、この「狗邪韓国」に着くまでの距離が7000里余り、とある。この記述が大きな議論の的となっている。なぜかというと、わが国の1里は約3。93kmであるから、7000里は、7000x3。93=約27500km。この距離は、フイリピン海に達する距離であり、釜山の位置はフイリピンあたりになってしまうことになる。そこで、古代中国の1里は日本とは異なることがわかる。では、この7000里の1里は幾らなのか、実測値と比較すればわかる。そのためには、出発地(出港地)と到着地(着港地)が明らかにならなければならない。

 まず、出発地(出港地)である。魏志倭人伝には「帯方郡」とあるだけで、地名や場所はない。帯方郡が現在のソウル付近であることに異論はないので、その近くの港といえば、現在の仁川(じんせん)港である。ここが出港地である可能性もあるが、ソウル近くを大きな漢江(ハンガン:かんこう)が流れている。この川を利用して海に出たとも想定できる。漢江の河口からソウル市内までは約100km離れているので、河畔が出港地ならば、その分、距離数は増すことになる。
 到着地(着港地)の場合もそうである。釜山なのか、巨済島(コジェとう:きょうさいとう)なのか、釜山から巨済島までの距離は、約50kmである。これらを考慮した結果、7000余里の中の1里は約90mとなることが分かっている。ただし、この時代の中国では、1里の距離については二通りあって、一つは、1里が450mほどの「長里」と呼ばれるもの、もう一つは、1里が約76mの「短里」と呼ばれているものである。帯方郡から狗邪韓国までの距離が7000余と書いてある部分は、出港地や着港地が異なる場合を考慮すると、実際の距離は615km~695kmである。この場合の1里は88m~99mの短里となる。


<つづく>  

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